私は鹿児島市出身で、中高一貫校に通っていました。いい大学に行って、いい会社に入ることが唯一の幸せだというような思想の下に育ち(いいってなんだよ)、家と学校以外に関わりがない環境で高校時代まで過ごしたため、「鹿児島の(周囲の)大人たちは頭がかたいなー」と思って、逃げるように県外の大学へ進学しました。
(高校三年生のとき睡眠障害および適応障害になり、中退して高卒認定を取得しました。)
不登校中(2019年夏)に、Minerva大学の学生が開催していたワークショップに参加したことがきっかけで、Project Based Learningという学びのあり方を知り、創立当初からそれを実践していた公立はこだて未来大学に進学しました(2020年秋に合格し2021年4月入学)。
函館時代の一年は、コロナ禍で人肌恋しく、2年目から自治のシェアハウス「わらじ荘」に移り、一般社団法人いとのこという会社が営んでいる事業に大きな影響を受け、こんな温かさやつながりは鹿児島にはなかったな、と思いながら過ごしていました(これを書いている現在はもうそんなことは思っていません)。
その後、42Tokyoという東京にあるフランス発祥の学費無料かつ教師不在という特色あるソフトウェアエンジニア養成機関に学び舎を移しました。これまた学習環境に惹かれたためです。
この東京時代にエンジニアとしてつくるべきサービスやプロダクトは何かについて思索し、六本木のレストランのキッチンチームでアルバイトとして働かせていただきました。農家さんとのつながりができ、土づくりや野菜それぞれの育ち方・特徴を知れたり、「農家さんが作った野菜からレシピを考える」という方針の下で料理の楽しさを知れたりしました。
そのレストランのオーナーはアメリカで長く暮らした経験の持ち主で、彼の影響を受けて、2024年10月から2025年3月までの6ヶ月間をフィリピンで暮らしてみることにしました。
そして、およそ4年ぶりに鹿児島に帰ってきました。大学生時代に4箇所で暮らした経験は(一時期福岡にもいました)、いろんなコミュニティや地域・産業構造、人・考え方に触れる非常に学びに溢れたものでした。しかし、4年間を通して一つのことを継続していないという事実は「自分が何者なのか、社会人になって自分のやりたいことは何なのか」という問いに対して確信を持って答えることを難しくしていました。
ただ、あちこちに身を置いたからこそ見えてきたものもあります。共通して心惹かれたのは「人と人とのあたたかいつながりが生まれる場」であり、その背景には必ず“自発的な学び”や“関係性や場のデザイン”がありました。自分が何を大切にしているか(または、どんなことに違和感が湧くのか)、どんな場に身を置いたときに心が動くのか、それらがこれから点と点が少しずつつながっていくのかもしれません。
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目次はこちら→ The Journey to Creating a Community Kitchen
※ 上記に書ききれていないそれぞれの日々はおいおい書きます。または、実際にお会いしたときに聞いてください。